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『まつしん』とビフテキ~三重信用金庫さんのおはなし~

こちらに嫁いだばかりにとき、銀行にお使いを命じられて???となったことが何度もありました。それは「『まつしん』行ってきて」の一言。『まつしん』???そんな名前の金融機関あったっけ?と首を傾げながら渡された通帳を確認したものです。

『まつしん』は松阪に本店を置く三重信用金庫のこと。松阪信用金庫(合併して松阪伊勢信用金庫)→後に三重信用金庫に改称したそうで、昔からの取引のある方は今も親しみを込めて『まつしん』さんと呼んでいます。(余談ですが私もすっかり最近はまつしん呼びが板についてきました。少し松阪商人に近付けたかな?)

ここで、こちらの古い新聞記事をご覧ください。地元紙夕刊三重の「まつさか今と昔」という連載コラムです。画鋲のあとからもわかるように古い記事の切り抜きを壁に貼っていたのでかなり日焼けして読みにくくなっておりますが…

というか、ほとんど読めませんね。『まつしん』さんに関係のあるところだけ抜粋いたします。

二代目の五郎氏が養子に入ったのは昭和七年だったが、この年五月に日野町に丸信ビルが竣工、地下を料理割ぽうにし、八千代が食堂を経営した。十七年六月に市議になった五郎氏は、翌年出征。八千代は戦時体制で住友金属の寮に接収されたため、丸信ビルだけで営業を余儀なくされた。

ところでこの切り抜きの裏面を見ると、昭和53年5月、北牟婁郡海山町(現・紀北町)の上里小学校の校庭に梶井基次郎の文学碑が建立されたことを紹介する記事が掲載されているので、このコラムは昭和53年6月はじめの夕刊三重の紙面だと思われます。

話を戻すと、このコラム内の「日野町丸信ビル」は、現三重信用金庫日野町支店の場所にありました。その地下で食堂を八千代が経営、八千代三代目俊一の話によりますと、そこで松阪で初めて「ビフテキ」をメニューに載せたのがその店であった、ということなのです。

今は亡き義父の話を聞いた記憶を辿ると、どうやらそのお店は料理割ぽうという和風のお店というより当時珍しい洋食を提供するレストランのようなお店ではなかったかと思われます。「伊勢湾台風(昭和34年)ではその地下の食堂が水没して往生した」「『ビフテキ』は当時とても珍しく繁盛した」くらいしか話を聞いておらず、どういう経緯で店を出しいつ閉店したのか、というような詳しい話はわかりません。義父存命の時にもっと色々聞いておけばよかったと後悔しきり。ただ、「松阪で最初に『ビフテキ』を出した」のは誇りだったようで、そのことだけは何度も聞いた覚えがあります。

「殿町の建物を接収されたため、『まつしん』の地下で営業を続けながら苦労して八千代を買い戻し店を再建した」と文字だけでは一行で済んでしまいますけれど、当時は本当に苦労したそうです。その苦労も相まってか『まつしんの地下の八千代』にはいろんな思いが篭っていたのでしょう。

さて。こちらも同じく夕刊三重のコラム「思い出の一枚」◆昭和8年、日野町で行われたパレード、とあります。

写真は、昭和8年、松阪市制施行記念の三重県産業共進会(松阪商工会議所主催)で、同市日野町の松信ビル前で行われたパレードを撮影した。(中略)同市殿町の割烹旅館八千代の先代店主の妻・阪本秋さん(86)は、中央の車に乗っている女性の一番左が自分ではないかという。八千代は当時殿町の割烹旅館のほかに、松信ビルの地階にも出前仕出しを行っていた和洋食の大衆食堂があり、秋さんはそこで働いていた。

当該の『まつしん』の地下で営業していたそのビルの名前が前出の記事では「丸信ビル」こちらの記事では「松信ビル」となっています。改装などをしてその時呼び名も変えたのでしょうか?

資料もなにも残っておらず、手元にあるのはこの新聞の切り抜きだけ。松阪に初上陸した『まつしん』地下の食堂八千代のビフテキはどんなお味だったのか…今は想像すら難しく。ご存じの方いらっしゃいましたらご教示くださいませ。

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