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八千代創業年の謎

松阪には「夕刊三重」という地元紙があります。松阪小津組・矢野隆登志氏寄稿「小津と梶井のパノラマ」という連載に興味深い内容があったので御紹介します。

「小津」は映画監督の小津安二郎。「梶井」は小説家梶井基次郎。松阪に縁の深い2人の視点をならべて当時の松阪を検証するという面白い連載です。2人が松阪にいた時期は2年半ずれがあるそうで、松坂城跡で小津と梶井がすれ違ったら…という想像は非常に楽しいのですが、残念ながらそういうことはなかったようですね。昨日の記事のサブタイトルは『松阪公園の藤と八千代』でした。

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梶井のノートの中に八千代の記述があるのは以前書きましたが小津監督も書いていたとは驚きでした。以下、記事より引用します。

【小津の視点】 八千代と藤棚は1918(大正7)年8月26日の小津安二郎の日記にもでてくる。当時は中学3年、14歳だ。 

「昼から乾と新町から行く中条に合ふ、片山の所にゐって少しあそび工業に行く、それから公園に行く 八千代のSにかまふ 圖(図)書館に行く、それから工業で野球見る スライヂンクとしてゐた 家にかへり兄と尾鹿の兵士を送りに停車場にいく」

“S”は”シャン”でべっぴんさんのこと。八千代の芸子さんをからかったのか。青年期へ差し掛かろうとする小津の姿が浮かぶが、遊びの中心は野球でまだ無邪気。

2009年8月21日付夕刊三重第5面より

工業は松阪工業高校、公園は松坂城跡公園のことです。図書館は以前は現在の公民館、その前は現在の民俗資料館の所にあったそうです。小津がからかったSとはおそらく八千代の芸子だろう、とのことですが、実は八千代には専属の芸子はおりませんでした。

ここからは3代目である義父・俊一から聞いた話。

当時松阪で料理屋といえば愛宕町の「武蔵野」が一番手。芸子さんも50人くらいは抱えていたんじゃないだろうか。立派な正面玄関と入ってすぐに二階に上がる大階段。右手には千本格子の部屋があり、おそらく芸子さんの控えだったんだろう、格子からちらちら芸子さんの姿が伺えた。宴席に芸子さんを何人つけるとか、お酒を何本つけるとか、硯蓋(すずりぶた・手土産用の折詰)の意匠を凝らし、羊羹をながしたり高野(豆腐)や干椎茸を焚いたものを入れたり。いろいろ考えて他店と競い合っていた。うちは芸子さんはいなかったので川井町にあった「相春木(あいはるき)」や本町の「撫子」から派遣してもらっていた。中学生がうろうろしているような昼の日中から酒席があったんだろうか…時代だな。

残念ながら現在松阪には芸子さんはおりません。ところで。公式には八千代の創業は「大正10年(1921)」となっておりますが…?

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大正9年の地図に藤棚のとなりに「八千代料理店」の文字がすでにあります。そして今回の小津の日記は「大正7年」、いったいいつから八千代はあったのでしょうか???

義父が子供の頃に大祖母(初代・菊次郎の妻、なか)に聞いたそうです。「そうさなぁ。何年からだったかいなぁ。」

ご近所さんにも「あんたとこはもっと昔からあったやろ?」といわれたことがあるそうです。おそらく大正3年くらいからだったんじゃないか、とのことでした。正確なことはわかりません。もうすぐ100才にはなるのでしょう。

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